「いいえ、そのような大きなお煎餅であれば、お寺の石段下の店にありますよ。」
突然入るなり、撮影に使う大判の煎餅はないかと訊く無礼な珍客に、年老いた店主がにこやかな顔で案内してくれた。
「ほら、ここをまっすぐ行き、途中で右に曲がりますと、池上本門寺ですよ。その門のすぐ前にありますよ。そちらに行かれてはいかがです?」
商売敵という概念は、この街では野暮なことなのかもしれない。
我輩として滅多に乗ることも、ましてや途中の駅で降りることの無い、東急池上線。
今行っている撮影で、急遽、小道具として大判の煎餅が必要となった。
本来であれば、撮影前に楽天などで探して、購入すべきであったが、我輩が確認をしなかったことに責がある。
直径20センチ以上の煎餅であれば、たいてい、大きな寺のある門前町に、お土産としてあるものだ。浅草浅草寺の仲見世なぞ、そのよい例だ。大味であるが、賞味期限は比較的長く、外国観光客の好奇心をくすぐるにはもってこいのものだ。
考えてみたら、日蓮宗の門前町を歩いたことはなかった。
撮影現場は待っているであろうが、少しだけどんな雰囲気であり、町の人たちはどんな感じなのか、少し知りたくなった。
冒頭の煎餅屋の店主も信徒衆であろう。
町全体はやや寂れており、ところどころに昭和30年でカレンダーをめくり忘れた食堂や喫茶店がある。
お盆の道具を売る仏具屋は、店先に必要な用具を並べているが、商売っ気は全くない。
正直な話、町も人も、古い。
繁栄にも、現在の不況にも、縁の無い生活が息づいている。
ひどく退屈な町。どこにも行こうとしない、住民達。
それが率直な、我輩の感想だった。
だが、偉大な退屈は、限りない美しさを持っている。
「ああ、このお煎餅ですね。」
教えられたとおりに歩いたら、急な石段の前に、その煎餅屋があった。
無礼無骨な質問をする我輩に対して、穏やかに答えた店主夫妻。
想定してた煎餅よりも若干小さいが、顔を隠すに十分な大きさ。
撮影に必要であろう枚数を購入した。
「ほら、これもお食べ。欠けているけど、味はこんなんですから」
5枚くらい、袋の中にバラバラと入れてくれた。
なんてことはないかもしれない。
このような珍客に対して、十分なやさしさだ。
思わず参拝してしまった。
真夏の炎天下。
軽い熱射病になりつつ、急な石段を登りきったら、風鈴のけたたましい音楽に迎えられた。
比較的新しい建造物である。
参拝者は地元民が中心。
あちらこちらから題目が上げられている。
その唱え方は、あまりにも無骨。
あまりにも飾り気はない。
1分も聞いてたら、飽きてきそうだ。
だが、この町の退屈さと同様、何で美しいと感じてしまうのか、今の我輩には分からない。
現場に急いで戻る。
途中で、最初に道のりを教えてくれた煎餅屋に入り、御礼かねて煎餅を個人用に買う。
今、この日記を書きながら、ぼりぼり齧っている。
今時珍しい、きわめて濃い目の醤油味。
どうやら、本当にあの町は、時間が足踏みしている。
住みたいとは決して思わない。
だが、好きになれそうだ。