力作である。
書店で偶然見つけ、思わずレジへ向かったのだが、よくぞここまで調べに調べたものだ。
ブログやSNS等、生存している間に膨らんでいく個人的な情報は、その書きこむ人が死んだ後で、何が起こるのか・・・ということを徹底的に調べたという内容。
103サイトの生前と死後、そしてその遺されたサイトの状況を一つ一つ、訥々と書き記されている。
死に至る状況はそれぞれ違うが、
- 突然の事故死等による突然の「故人サイト」化
- 病気に向かい合っての遺書の役割としての「故人サイト」
- 自殺に向かうその経緯についての「故人サイト」
- 故人を偲ぶ「故人サイト」
の4つに絞られる。
1つ目は、読んでみて、なかなかキツいものが個人的にある。
数時間前まで元気、人生を謳歌しているかのようようなツィッターの呟きやブログでの現状報告が突然に切れるというもの。
本人もそうだが、家族や周囲の人たちにとっても、唐突の悲劇であり、気持ちの整理もなかなかつけられない厳しい状況があったであろう、ということが、それらの「故人サイト」の中で見ることができる。
わざわざ浄土真宗の「白骨の御文」にある
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり
を出すまでもないが、死は誰にも等しく訪れるものであるが、それがいつになるのか判らないということに、理不尽さがあることをこれらを見るにつけ、思い至るものである。
2つ目は、もしかして我輩のこのブログはこれに含まれるのかもしれないが、重い病により、死を意識して(逆にその死を忘れたいがために)、心境の報告、死に対する準備(遺言としての機能)、他に同じような病気を患っている人たちへの応援、情報の共有などが主立っている。
意外…というより当然かもしれないが、死に向かって、肯定的に動いていた人はごくわずか(「終活」に積極的に取り組んでいた故金子哲雄氏が著名な例)で、大多数が未練、恐怖、絶望の中にあって、残された現世における時間を如何に過ごすかを見出そうという足掻きを書き連ね、人間の本質とは何かを感じさせるものが多い。しかし、それさえもなく、自分の運命を呪う「故人サイト」も多くあり、何ともやりきれない気分にさせる。
3つ目は救いがない。
生活困苦から、母子心中した漫画家志望の青年、職場虐めに苦しみパワハラを告発して自殺した札幌市市職員、歯科技工士になったが激務から身心追い詰められた男性、自殺願望に最期まで悩まされた女性編集員、その他多くの精神病患者…
トルストイの「アンナ・カレーニナ」の序文では
幸せはみな同じ顔をしているが、人の不幸は様々な顔をしている
があるが、それにしても運命と片付けるには、酷過ぎる。
これらの「故人サイト」について、感想を述べる資格は我輩にはない。
あまりにも鬼気迫るものであり、21世紀の「怨念」と呼べるものが、確かに存在している。
4つ目は、一概に「幸いな」「故人サイト」とは言えない。
亡くなった後で、残された遺族や仕事仲間が故人を偲んで、サイトを立ち上げた、あるいは既にあるサイトをそのまま継続更新するというのは、ポジティブな例であるが、決して多くはない」。
殺人事件に巻き込まれ、犯人が見つかっていない…同じ病を抱えて自殺したパートナーの遺志を引き継ぐ…あるいはこの本には登場しないが、自殺した子供のために、自殺に追い込んだ”犯人”を追及し、裁判の経緯を逐一報告するようなもの等は、多くのネガティブな例として挙げられ、むしろこちらのほうが、圧倒的に多いように感じられる。
死んでから、故人は生き続けるというものであるが、時としてそれは、現世に生きる人に対する慟哭のようなものであるのだ。
そしてそれらの叫びを、受け止めなければならないという、責任を感じさせるものがある。
それにしても、ふむ、翻ってこのブログ、我輩が死んだら、どうしようかね。
先週、駅構内で、女子高生が誤って我輩の胸にドズンにぶつかり、狭心症の発作が突然出た時は、死ぬ…と思ったもんな。
時々、我輩の隣に死神さんがいるということを、思い出さなければならないというのは大切かもしれないが、南浦和駅のベンチでうんうん唸りたくなかったぞ、あそこ、あまり良い雰囲気の駅じゃないから(ソウジャナクッテ 。
結婚していない。この年齢になったから、もう結婚してくれる相手はいないから仕方がない。
だとすれば、墓さがしと併せて、これらについても自分で今のうちに、どーのこーのしなければならん…って事か。
一応、これをも読んではいるけど、なんかまだ「これ!」という仕組みは、出来ていないんだね。
我輩の意見として、民生委員に相談するという手もある。
デジタルだけで全てを処理できる…というものではない。
従来ある行政サービス等と巧く組み合わせることができないか、ふと思ったりしてしまう。
ついでに、在住している市役所等のサイトを見ると、色んな”手”があったりするものだ。
ちょいと我輩なりの、「終活」の方法をまとめてみたいものがあるな。
ああ、他にも、自分の葬儀とか、どんな宗教でやるのか、どこに骨を置くのかについても、色々と調べている。
葬儀の方法については、
以前、日記に書いた通り。
空中葬、いっそロケット葬でも…あ、でも、武田神社に神道専門の合同墓地があるんだよなあ…。
なんかこれらをいちいち調べたるするのが結構楽しいんだよw
なんというか、ほら、旅行前に色々と現地の事を調べて、アレを食べよう、コレを見てみよう…ってのがあるっしょ?
あれと同じ(ぉ
片道切符の旅行だからねえ、今からでも調べておいて、これ!…というのを見つけたら、払込をするくらいじゃないとね。
でも、デジタル面については、実際の話、あまり気にしていなかった。
その点で、この本は、我輩にとって素晴らしい「メメント・モリ」である。
にしても、デジタル化で生活は便利になるが、死を思うことについて、複雑化させてるものだねえ。