食い合いにならないための知恵かもしれんが
- 2016.04.23 Saturday
- 15:25
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面白い記事だ。
寿司学校卒ペーペーの店がミシュラン…店長「寿司屋なんて3カ月あれば出来る、8年の修行は無意味」
これを読んだ時、ふと、インドのカースト制度を思い出した。
カースト制度はインドの憲法においてカースト制度における”差別”は否定されているが、カーストそのものが主に農村や南部地方において、”意識”として残されている。もっとも都市部においては、カースト全体についての”意識”さえも消失しつつあり、自分がどのカーストに属しているのかさえ判らないインド人も増えてきている。健全な中産階級が順調に育っていることによる結果とも言える。
そもそもカースト制度はどのように生まれたのか、様々な学説がある。
よく知られているものとして、太古、インド大陸に住んでいたドラヴィダ族が、北方のアーリア族に攻めいれられ、被征服民族と征服民族の区別から生じたというものだ。
かつての土佐藩のようなものと言える…土俗の長宗我部家家臣が、徳川幕府の権力によって新たな支配者となった山内家によって厳しく差別された例のように、古今東西、どの地域においても見られた。韓国なぞ、未だに激しい地域差別があるくらいだ。
この制度を確固としたものにするため、バラモン教における天地創造神話が取り入れられた。
後世、ヒンズー教に引き継がれ、信徒である限り…いや、これは言い表しがたいが、バーラタの民である限り、自然と身についている教えがヒンズー教であるが(イスラームやキリスト教などの場合は、その家族史を見なければわからないが)…カーストそのものが当然のものであると、その可否は別として、受け入れられるものとなる。
ただ我輩自身、素人ではあるが、あまりこの説は信じていない。
前述のとおり、都市部…つまり、人間関係などが希薄で、出自を問われず実力によっていくらでものし上がれる環境において、カーストに対する考えは希薄になる。更にいえば、近代以降の複雑な経済環境と一地域に留まらない商業活動を行う場合、重要なのは相手のカーストではなく、自分の利益につながるか否かが重要になる。
ガンジーが讃えたインドの農村のように、単純な経済構造を有する場所にのみ、カーストは有効であった。
いや、それだけではない…大量の移民が入ってきた、一次産業が主軸である時代においてのみ、その制度は意味をなしていた。
皆が皆、農民として入ってきたのであれば、広大な大陸とはいえ、限界が生じる。
入ってきた移民の特徴や得意とする分野を考慮し、何が得意か否かを見極め、その時代の支配者が命じて、その職に就かせ、それがやがてカーストへと変貌していったという考えを、我輩は個人的に支持している。
そのカーストとして生まれた場合、その運命を受け入れ、善きヒンズー教徒としての生き方を学ぶ。
決して、他のカーストが行う仕事に就いてはならなかった。運命というか、自ら課せられた本分に尽くす限り、生活に困ることは(一応)なく、カーストの世界において年齢相応の地位、生き方、生活する環境が保障された。
家族をなし、子供にカーストの中で生きることを教え、自らの技能などを伝え、年老いて平安に死ぬことが理想とされてたし、カーストの考えが薄くなった今日においても、それが理想とされている。
カーストは、他者と大きな区別を設けることにより、経済的に食い合わないための知恵であった。
また、伝承するために、価値観や経験に大きな差異がないように、今でも同じカースト同士の結婚が多々見られる。
じゃあ、この寿司職人というのはどうなのか。
誰かの元に入り、はたから見ればまったく意味のない生活を長年過ごしてやっと握り方を教わる云々とかについて、その非合理性を指摘する声がある。
我輩も先に言っておくが、正直、この制度は馬鹿げてると思っている。
が、意味があるように思える。
確かに、これらの技能は、マニュアル化し、その通りのことを反復練習すれば、習得できる。
では、何故それをやらなかったのか。
親方が馬鹿だから?…う、馬鹿というより、他人に教えるスキルがない…と言ったほうが…いやでも、そうなると(ソレイジョウイケナイ。
「荘子」の中にある「作車輪的老人」の話がある。
ある車輪作りの親方が、読書している王様に対して、何の本を読んでるんです?と尋ねるものだ。
御存知ない方は、まあ、適当に検索して…。
その親方さん、本とかで伝えても、本質を伝えていないから意味がない、車輪作りも手取り足取り教えてやらないと伝えられない云々…てな内容。
東洋的?いや、欧州の徒弟制度やギルドも、これに似たようなものだった。
だがこれらは、狭く、複雑化していない、時間についてもとやかく問われない時代においては有効だった。
効率よく伝える方法は、いくらでもあったはずだが、それらを行わなかったのは、親方自身が生活するのに、ライバルを増やさないための知恵であったと我輩は考える。
いきなり寿司の作り方を教えれば、若く、手先も器用な弱年齢者であれば、あっという間に親方を超えることもありえる。
弟子が独立したら、自分の領分が侵される。
だから時間をたっぷりと無駄に潰し、技能技術にある程度の神秘性を持たせ、合理的ではない方法で伝え、親方が引退する頃合いに弟子が後を継げるようにした…こうして、食い合わない環境が生まれた。
寿司とか職人の世界だけではない。
幕末に千葉周作が生み出した北辰一刀流なぞも良い例だ。
神秘性を一切なくし、無駄な稽古などを省略し、誰もが簡単に習得する流派である。
当時、他流派からその簡易さ、合理的な考えに対して、糞みそに否定されていたが、結局この流派の考えが現代の剣道の主軸へと昇華していった。
現在の複雑化する世界情勢において、必要な技術技能を、単純化、体系化した上でマニュアル等によって整理し、誰でもがそれを見て、その通りに手足を動かせば、スタンダードに立てるようにしなけば、生き残ることはできない。
合理性を否定するのは、一方では、熾烈な過当競争に対するアンチテーゼのようにも捉えることができる。
完全に否定することはできない。
が、これらの動きを逆に何から何まで否定することによって、大きく取り残されるという危機感を持ち合わせていないことのほうに、我輩は違和感を抱いてしまう。
優れた技能を有する者ほど、自らの技能がどういうものか、客観的に説明できるようにならないと、正直、生き残ることはできないだろうし、伝承しようとする若い世代は生まれてこない。
「職人だから、そんなのは必要ない」という輩は、さっさと引退したほうが良い。
マニュアルと言ったら堅苦しいかもしれないが、説明したら、誰もが理解できる能力がなければ、もはやその人物は、親方でも職人でもない。社会性のない、コミュニケーション能力欠如者だと言ったら、厳しすぎるか?
他者に無駄な時間を過ごさせることに対して、厳しくなるものだよ。
なんか、数年後には、どっかの回転寿司屋がミシュランに載りそうだな。