40代独身男の悲壮感は異常
このスレを立てたのって、結婚したことのないアラフィフ独身女性じゃねーのか?・・・と思ってしまった。
「独身は寂しいやん」・・・この一文が、既に男性の感情ではない。
まあでも自らを思い返し、見回してみると、独身既婚問わず、40〜50代にかけて”悲愴”に見えるというのはあるかもしれん(ちなみに”悲壮”は誉め言葉だぞ?悲劇的ながらも勇敢な・・・という意味だからね。”悲愴”は悲痛とかと同義で、ひたすら悲惨な状況を意味している)。
サラリーマンに絞れば、そこにあるのは思い通りにならない人生。
家族の生活とローンを抱えての人生。
だが家族とのコミュニケーションが途絶え、粗大ゴミ扱いされる人生。
かつての同期との競争で、勝ち負けがはっきりした人生。
仮に勝ち組だとしても、役員にならなければ定年でポイ捨てされる人生。
負け組だとしたら、若い連中に相手にされない人生。
「40代になってから読む本」とかの意識高い系の本を読むと、できないことばかりが羅列されていて愕然とする人生。
独身だと、ホモだと間違えられる人生。
役職とかについていないと、まったく相手にもされない人生。
でもね、見直してみると、自分自身の責任でもあるんだよな。
サラリーマンになるということは、その会社から給料を貰っている分だけ働くという契約を結んだことになる。
であれば、契約以上の仕事をする必要はないということだ。
不況になってリストラの対象者になりやすいというのであれば、会社の外で自分のキャリアを作れば良いのだ。
そこには肩書きとか勝ち組とか負け組とかは存在しない。
大体、役職って、ほんとーーーーに他社とかでは、まったく役に立たない。
参考にはなるが、会社の仕組みが違っていれば、通用しない。
どっかのCEOをやって、別の会社のCEOになったというニュースはたくさんあるが、口先八丁で株主を騙すテクニックがあるにすぎない。まあ、考えてみたら、それもまた重要なビジネススキルであるがw
会社はあくまでもライフラインでしかない。
会社の外で自分のキャリアを見つけ、作り、強くしなければ、悲愴な状況になるわな。
結婚するということは、妻となる女性と一緒に生活をするという約束をしたことになる。
お金のみで換算するということは、一緒に生活をするということの一部に過ぎない。
結婚は自らの権利を半分にし、義務を三倍に増やすことを意味する。そこには家族とのコミュニケーションが多く含まれている。
意見が全く合致しないということもあるが、それでも会話をしなければならない義務を有する。
その義務を放棄し続けるのであれば、悲愴な容貌になるわな。
独身であるというのもまあ、誤解されるというリスクを常に覚悟する必要がある。
これは我輩として、仕方がないものとしてあきらめている。
心臓病であるということを言い訳にはしていない。プチ貧乏の海外旅行好きで、オタであるということを死ぬまで続けたいということで、女性からの理解は一切得られないと踏んでいるから、ゲイでもホモでもどうぞ誤解しまくってくれ。
悲愴?悲愴に見られないな、なぜか知らんが。
人生、楽しんでいるからかな?w
にしても・・・同世代の諸氏を見ると、ああ、悲愴以前に、相手にされなくなるなー・・・という言動がやたら目立つん。
”きちんと年齢をとっていない”諸氏が多く、このスレ主が述べた「悲愴」は要するに、見てて「イタタタタ」・・・なのではなかろうか、と思える。
ネットスラングに良い表現がある:
ババア(ジジイ)無理すんな (まあ、この場合は20歳代以降でゴニョニョニョ・・・)
自分は若い!・・・と思うのは、個人の内に秘めるのであれば救いはある。
だが若い世代の空間の中に入り込もうとすると、もう「悲愴」しかない。
まだ負けられない、仕事なんか任せられない、俺様がいなければ会社はやっていけない!・・・という勘違いの類となると(これがとても多いんだよね)、「悲愴」よりも「滑稽」さが増してしまう。
自分の年齢という現実に向き合うことができない人間こそ、本当の意味で「悲愴」なのだ。
未婚既婚とかではない。
それぞれの事情で義務を負うか負わないかが存在するものであり、そこには幸福不幸の基準は存在しない。
収入やらステータスやらに、「年齢相応」の枕詞は意味をなさない。
20代で数億円の年収の人に、「年齢相応」だと言えるのか。
50代で文字通り、永平寺で文字通り出家している僧を、「年齢相応」だと批難することができるか。
重要なのは、きちんと年齢をとる、それだけだ。
年齢を重ねれば、体力は失われる。
その現実を無視して働けば当然身体を壊す。
それで失業とかすれば、「悲愴」だわな。
であれば、失われた体力分だけ、誰かに(たいてい若手に、だが)やらせてみる。
ここで重要なのは、できるできないかを判断するのではなく、やらせた相手が自分なりのやりかたでできるかどうかを見ることだ。
職人でもあるまいし、自分のやり方を押し付けるのは、発展の可能性の芽を摘むことだ。
その人にとってやりやすい方法で、仕事をさせて、結果を出させることに評価の目を注ぐべきだ。
自分の身体に自信をもってはならない。
人生折り返し地点を過ぎたら、主治医を作っておくべきだ。
この場合、一回り自分より若い先生であることが重要だ・・・自分より年上だったら、先に死んじゃうし。w
わずかな変調も見逃してはならない、自分の身体に対して、臆病であることが求められる。
糖尿病、肝臓や腎臓に関する病気は、病魔が発現しにくいという点で一番恐ろしい。
若手と話をするのは良いことだが、若手の集団に入り込むのは避けるべきだ。
求められていないのに、口出すする人間になってはならない。
誰かが困った時に、無言で助けること、そして無事に済ませたあとは静かにその場を立ち去ることだ。
他人の評価は一切関わりないということを、認識しなければならない。
外部の声は移ろいやすく、中年以降になればそれらの声は自らの人生に一切関係しないものに気づけば、おめでとう、あなたはきちんと年齢をとっている証拠だ。
無理して若い世代に媚びると、惨めだぜ?加藤茶なんか、良い例だわな。w
きちんと年齢をとっている人は、仏頂面ではない。
誰に対しても微笑を絶やさない。
自分より上の人に対しても、自分より下の人に対しても同じである。
言葉も態度も、だ。
上に媚び、下に怒鳴る人間には絶対ならない、いや、なれない。
何故なら、無礼傲慢な態度をとれば、結局自分がそのような無礼傲慢な嵐に見舞われることを知ってるからだ。
きちんと年齢を重ねている人は、「因果応報」の理を髄の中に溶かし込んでいるからだ。
ああ、それと、たとえ自分としては幸福な人生だと思っていても、恰好とかに気を付けないと、スレ主のような馬鹿が勘違いしちゃうからね。
背広を着ない職にあっても、一年に一回は着てみよう。
もし、主観的にも着こなせていないと感じるならば、あなたは見た目に「悲愴」な人間になっている。
「馬子にも衣装」ではないが、社会的な正装は、誰もがある一定以上のステータスに押し上げる偽装のようなものだ。
ネクタイがよれてる、クリーニング屋に出していない臭いワイシャツ、皺だらけの背広、踵がすりへった靴…それらを平気で着ている段階で、「悲愴」そのものだ。
きちんと年齢を重ねていれば、そのレッドラインは身についているものだ。
「人を容貌から判断するな」と言う人もいるが、「容貌はその人の性格を表す」と返すことができる。
きちんと年齢をとっていれば、そのことを経験で自然と知る事ができるものだ。
死ぬという自覚も持ち始めるようにしたほうが正しい。
自分が死んだらどうなるかということもあるが、死んだ場合、遺された周囲が面倒を行さないようにするにはどうしたら良いのかを、きちんと整理したほうが良い。
これって結構重要なことだ。
何せ、自分自身の人生を振り返る作業と同じことだからな。
そして、可能な限り、自分がやりたいと思うことをやってみよう。
仕事とかでどうしてもそれをやれる時間がないのであれば、時間を作ってしまうのだ。
会社はあなたがいなくとも、勝手に進むものだ。
我輩も2週間、マレーシア〜タイまで遊びに行ったが、まったく問題なかった。
世間はあなたがいなくとも、勝手に動いていることに気付けば、きちんと年齢をとっているということを意味している。
少し人生、見直そうよ。きちんと順々に老いてやがて死ぬことが、幸福な人生を気持ちよく過ごす秘訣だぜ?