大和民族のもう一つの顔としての諏訪大社
- 2014.11.30 Sunday
- 16:06
JUGEMテーマ:地域/ローカル
諏訪大社への一泊二日の小旅行から帰ってきた。
数回、参拝に行ってるが、何度訪れても不思議なところであるとの実感が強くなっていく。
主要四社が存在するが、そのどれもが出雲大社の作りと同じである。
主神は大国主命の二男である建御名方命であることからによるものかもしれないが、不思議に思うのは、現在の島根県出雲から、太古において既に長野県諏訪と繋がるルートが既に出来上がってたということ。
だがそれ以前に、不可解なことがある。
「日本書紀」では、「信濃須波(しなののすわ)」の神、つまり信州信濃における現在の諏訪に古来よりある神が祀られているという記録があるが、何の神であるのかの詳細が記されていない。
ところがその後に編纂された「古事記」では、天孫降臨前の「出雲の国譲り」において、天照大御神の孫神である瓊瓊杵尊から派遣された武甕槌命との戦いに敗れた建御名方命が、諏訪まで逃れ、以後、天孫族に従うことを条件に、この地から出ていかないことを誓ったとされる。
大和朝廷は、土着の「信濃須波」の神を、建御名方命に「古事記」で差し替えたのだろうか。
あるいは、謎多き建御名方命の妻であり、諏訪大社の主神の一柱である八坂刀売神が、「信濃須波」の神で、亡命した建御名方命と結婚したのかもしれない。八坂刀売神は記紀に一切登場しない女神で、その御稜威も不明とされている。
また、建御名方命の存在自体が否定されているという別の有力な説が存在する。太古の信濃を支配し、「信濃須波」の神を祀る一族(金刺族)が、大和朝廷への帰順と、自らの権威を高めるために、建御名方命を作り、「古事記」に組み込んだというものである。
一見、編纂を取り仕切る大和朝廷にとって、意味をなさないとも思えることであるが、実はこれがなかなか複雑だ。
当時、「信濃須波」の神を祀る氏族は、他に複数存在していたと言う。
いずれの氏族は、自らを信濃の支配者であり、「信濃須波」の神を祀る資格を持つ神聖な存在であると宣言し、覇を競い合っていた。
その中で最も有力だったのが、「ミシャグチ」と呼ばれる「信濃須波」の神を祀る守屋族だった。
この「ミシャグチ」は縄文時代の信仰を色濃く表す、狩りを司る神であった。
民俗学者の柳田國男翁は、この「ミシャグチ」を、生贄を求める神だという仮説を立てていた…これは世界中のあらゆる神話や民族風習に見られるものであるが、狩りが成功するために必要な生贄、その最高たるものは、人間そのものだったという。
フレイザー「金枝篇」で『王殺し』が登場する。
一年のはじめ、古代イタリアのネミ湖の湖畔において、見目麗しい選ばれた奴隷がヤドリギの枝(金枝)を一本折り、狩りの女神であるディアナ神を祀る聖所まで行き、その聖所にいる祭司「森の王」を殺さなければならない。
殺すことに成功した奴隷は、新たな「森の王」となり、一年間祭司としてディアナ女神を礼拝し、新たな奴隷によって殺される日を待たなければならない。
柳田翁は、「ミシャグチ」は、狩りが成功するために、一年に一回、人間の生贄を要求していたと説明する。
生贄となるのは、守屋族の最高位である族長で、尊称は「大祝(おおほうり)」であった。
無論、族長が毎年殺されるということはなく、おそらく一年かけて奴隷を一人、仮の「大祝」として育てて、生贄にしてた。
ちなみに他にも、蛇神「ソソウ」、狩猟を司る「チカト」、石木を司る「モレヤ」等、数多くの「信濃須波」の神々が存在していたし、それが融合され、諏訪大社に鎮座するようになった。
蛇足だが、もし「モレヤ」が「ミシャグチ」と同じ、人間の生贄を求める神であったとするなら、旧約聖書に出てくる「モレク」と性質がそっくりだな…と思った。
大小様々な戦いで収束できず、大和朝廷に一種の「事大」することで、金刺族が支配者となった。
大和朝廷としても、「まつろわぬ」北方の氏族を従わせる政治的に安定させる、狩りのような不安定なものではなく稲作等による経済活動の構築と共に、人間による生贄を止めさせる、宗教改革の意図があったと、我輩は想像する。
「ミシャグチ」信仰における生贄の伝承は、敵対する金刺族等の讒言だともいえるかもしれない。
だが、江戸時代の古文書に、実際に生贄(「大祝」の代理として、たとえば乞食の子供などを買って)を捧げた、それも刃物等で殺傷するとかではなく、たとえば馬上から突き落したり、荒縄できつく縛り血の流れを止めたり、豪雪の中を薄着で無理矢理歩かせたり…という内容が多く残されている。
勝利者となった金刺族とその後に続く「大祝」の一族においても、人間ではなく、動物の生贄を捧げる儀式が残り、現在でも形を大幅に縮小こそしているものの続いている。
仏教伝来により肉食がタブーとされてた時代、諏訪大社一帯では、狩猟と狩猟を通しての肉食は例外的に認められていた。
江戸時代に鷹狩が禁止されていた頃、諏訪一帯は「大社に捧げる貢物」を狩るという理由で認められていた。
奈良東大寺等で見られる鹿は「聖獣」とされ、殺すことも食することも禁じられていたが、諏訪大社が発行する「鹿食免」によってそれが許された。元々は免状の一つだったが、現在では食肉加工会社等における神札として崇められている。
毎年四月十五日、「御頭祭」が執り行われ、狩られた鹿の頭をズラーっと並べるというもの。現在は剥製の頭を捧げるだけになっているが、さぞかし壮観だったであろう。
地味であるが、同時に奇祭「蛙狩神事」というのが続けられている。
冬眠中の蛙を二匹掘り起こして、神殿の中で殺し、神々に捧げるというものだ。
これも最近では、おいそれと簡単に蛙を、冬眠中の穴から掘り起こすことが難しいため、養殖蛙が使われているそうだ。
浅薄さから、残酷だと批難することは容易い。
だがここにあるのは、肉食がごく当たり前になった現代に対する戒めがある。
食事として命を「いただく」ことは、古来、大和民族において、神事そのものであったことを証明するものだ。
どんなにベジタリアンを自称したとしても、何等かの動物の命を介さないで口に入れられるものは、現在の物流において存在しない。イスラームにおけるハラル認定のような公的機関のチェックがない限り、必ずどこかしらで、動物の命を奪うことで成立する食材を口に、誰もが入れている。
道元禅師はそれを理解し、「肉などが知らないで調理された食事を摂った場合は、破戒とならない」とした。鎌倉幕府から次第に安定した貨幣経済を軸とした現実的な判断だ。実際、永平寺での雲水の食事の中に「カレー汁」というのがあり、市販されているカレーのルーを使うが、その中には豚脂や牛脂が使われている。が、それらを食しても、問題はない。そして食事することそのものを修行とする考え、いやこれだけでなく、日本人の食事前の挨拶としての「いただきます」と食事後の「ごちそうさま」は、狩られたこれらの動物の命を再確認する知恵であるのだ。
諏訪大社の太古より伝える様々な神事は、農耕に留まらない、本来狩猟を生業としていた大和民族の一つの顔を再確認させ、同時に、それらの命を通して、我々は生かされていることの神秘を知らせる行いなのだ。
二一世紀の常識から、単純な脳みそで批難する浅はかな人間には、なりたくないものだ。