松阪市は、このお菓子をもっと広めるべきだ
- 2014.05.30 Friday
- 22:56
JUGEMテーマ:グルメ
お伊勢参りの後、本居宣長先生の墓参りと、我輩を色んな形で勇気づけてくださるせりなさんへの御礼へと松阪市まで行き、松阪牛の旨さに悶えまくったことを日記に書いた。
二見浦から松阪にかけて、一年中蘇民将来の松飾を飾る風習に直接触れ、
本居先生直筆の「敷島の歌」を目の前にして興奮し、
御城番屋敷や旧小津家旧邸に歴史をはせ(てか、八重洲にあったあの店、小津家と関係してたんだ…)、
せりなさんと一緒に美味しい懐石弁当をいただいた。
お土産に買った地元のお茶の旨さよ…コーヒー豆はまだ挽いてなかったな、そろそろ淹れるかな。
そんな感じで帰った後、ド忘れしてたことが…
蒲生氏郷が織田信長を松阪まで招待した際、茶席で出した”赤い羊羹”…それを後に、三井高利が命名した”老伴”…
なんでこれを買うのを忘れたんだあああああああああああああ!
松阪へ行った一番の理由が、それだったんじゃないのか!!(マテコラオイ
と泣いておりましたところ、せりなさん…
ありがとおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!
もうねもうね…帰宅直後にゆうぱっくの配達員が来て、開けたらこれが出てきて、掃除したてで綺麗なった部屋の中をスキップして踊ったのだよ(マジでマジで。我輩、浮かれると年甲斐もなく、文字通り”小躍り”しちゃうんだよw)。
はぁはぁはぁはぁ…
甘いのが苦手…ではあるが、嫌いというのではない。
好きなお菓子があれば、毎日食べても良い。
ただ残念なことに、それ、台湾にしかないんだよな…ああ…愛しの豆花…。
日記に何度書いたが、国やその地域の文化を測るのに、お菓子に注目すべきだ。
お菓子は、衣食住が満たされて、文化文明を育てる土壌が豊かになって初めて充実したものとなる。
そりゃそうだ、飢えている最中に、飾り麗しい餅菓子なんぞ大量生産してたら、「米がなければ、饅頭を食べればよろしいのよ おほほほほ」ってな感じになるわな。
原形となる甘い食べ物があり、職人たちが自らの腕をふるってそれをより美味しくする工夫を重ねるのに必要なのは、文化を育てる余裕なのだ。
だから素晴らしいお菓子の多い国や地域は、文化に優れているのだ。
で、この”赤い羊羹”…ちらっと書いたように、蒲生氏郷に請われて松阪の城下町に移った柳屋が編み出したものだ。
織田信長は茶会による政治を重視、優れた配下に対して、茶を嗜むように指示していたと言われている。
蒲生氏郷も”認められた”重臣の一人で、伊勢に通じる要所の松阪を治め、街道を整備し、信長の進めた楽市楽座のシステムを取り入れ、城下町を発展させた。
松阪まで招待された信長は、実務的な氏郷の手腕を高く評価したと言われている。
城内で茶席が設けられた。
氏郷は、信長のあるこだわりを熟知してた。
そのこだわりに沿うように編み出されたと言われているのが、柳屋奉善の”赤い羊羹”であった。
信長は赤色を大層好んでいた。
安土城の中も、朱色を基調としていた。
大満足だったそうな。
おおおおおおおお…
梅とかのピンクではなく、朱色…ではないな。
茜色に近いものがある。
最中の皮で手を汚すことなく、食べることができる。
最中の皮は、柳屋家宝の瓦模様からとっている。
羊羹が乾燥しないように、羊羹の上から薄い糖蜜をコーティングしている。
合理的な…そして、これほど観てて面白いお菓子は、あまり記憶にない。
その茶席から暫くして一般に売られるようになったが、瓦からの意匠であることから、「古瓦」と名付けられた。
江戸時代になり、茶人としても有名であった三井高利が白楽天の詩から「老伴」と名付け、今に至った。
はっぴばーすでぃとぅみー♪
はっぴばーすでぃとぅみー♪
では、一口…
シャクヌ…
あぴょーーーーーーーーー!
なにこれのうまさはなによなにこれおいおいおいおいこれって、最中のさっくり感じがいわゆる大量生産のそれではなく、丁寧に焼き上げたもので続く羊羹の甘すぎずくどさはなく、それが逆にコーティングされた糖蜜が重ね合って計算尽くしで甘さが口の中でブワっと広がり、程よい固さでの羊羹でありながら、羊羹とは違う複雑なかみごたえが楽しく咽喉に流すとすぅうううっと消えていくような感じだが胃の中で再構成され
これ、絶品!
松阪は牛肉もさることながら、これも日本全国に知らせるべきだってーの!
松阪は牛肉もさることながら、これも日本全国に知らせるべきだってーの!
というわけで、せりなさん、本当にありがとうございます。
他のも楽しませていただきますw