一塵の反論もない正論に満たされた社説だ。
かの国が喚いている通りの”残虐な植民地政策”があったんだよね?
いやあ、つくづく日本は”恐ろしい”ことをしたものだ。w
さて、黒田氏のこの記事の中で、一点だけ正しいと言えるか…いや、全体から見れば、歴史的に正しいかもしれないが、ただ、オーストリアだったのかとなると、何か足りないような気がする。
ドイツとオーストリアは一つの国家であるべきだとする考えは存在していたが、結果的にこれが実現されたのは、ナチスドイツの政治外交のよるものだった。
簡単に復習しよう。
1273年、スイス北東部のハプスブルクを統治していたルドルフ伯爵が、運命のいたずらによって(これを説明すると延々と長くなるので省略する。結構面白いいきさつがあったんよw)神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ一世となると、反乱を起こしたボヘミアを攻め、オーストリア公国を占領、ここを拠点に勢力を伸ばしていった。
特にハプスブルク家が領土を広めた方法が、政略結婚。
ネーデルランド(オランダ)、スペイン、ナポリ、シチリア、ベルギー、ルクセンブルグ等へと広がり、1556年に神聖ローマ皇帝の座に就いたフェルディナンド一世は、オーストリアを中心に東欧における地盤を固めた。
ナポレオン一世において神聖ローマ帝国は崩壊した後、ドイツ連邦が再編され、そこの名手となったが、国力の衰えは顕著だった。
この時期に生まれたのが、プロシア王国(後の統一ドイツ帝国の中心となる国)とオーストリア帝国が統一する”大ドイツ主義”か、プロシアを中心にドイツ系が統一した国家を作る”小ドイツ主義”についての討議だった。
同じドイツ系だから、前者が理想…とは言えない現実があった。
歴史の流れで、結果、後者となったのは頷けるところがある。
それは何故か?
統一イタリア王国の前身であるサルディーニヤ王国との戦争に敗れ、要衝の地であるロンバルディアを手放した。
ドイツ連邦におけるイニシアチブをとろうと離脱したプロシア王国への征伐を目的とした普墺戦争で返り討ちに遭い、連邦から追放される。
国際的地位を失ったオーストリア帝国は、この状況において内政で極めて不安定な状況に追い込まれた…この国は、ドイツ系単独の国ではなく、実は多民族国家だった。
無論、大多数(とは言っても、全体の1/4しかいない)はドイツ系オーストリア人であり、政治経済の中枢を占めていた。
それに続いて、ハンガリー系(こちらも1/4存在していた)、セルビア系、クロアチア系、スロベニア系、チェコ系、ボスニアヘルツェゴビナのイスラム教徒などが、それぞれの政治的意思をもって、帝国に対して複雑な感情を抱いていた。
そう、”大ドイツ主義”では、オーストリア帝国内の少数民族という問題が存在していた。
これらを抱きかかえての一つのドイツ国家を作るのは、現実的ではない…普墺戦争に勝利したプロシアが、オーストリア帝国を追放した理由は、ここにあった、
当時の欧州において、”小ドイツ主義”は極めて現実的な決定であった。
ドイツ連邦から追放されたオーストリア帝国は国内政治の安定化のため妥協策として、支配者階級であるドイツ系は、勢力的にほぼ拮抗するハンガリー系を抱き込み、世界史に名高い”オーストリア・ハンガリー二重帝国”を再編建国した。
帝国君主は、オーストリアの皇帝であり、なおかつハンガリー王として君臨。
オーストリアとハンガリーは皇帝の名のもと、共同で財政、外交、軍事を決め、残りの政策に関しては、別々の政府が行うというものだった。
判りにくい?
今でも、この制度を行っている国があるよ?
大英帝国。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドがそれぞれ独自の政府(議会)を持つが、財政外交軍事は女王を頂点に大英帝国議会で決められる。
もっとも、スコットランドでは財政に関して独立した力を得ている。
今でもハンガリー人は、この帝国の臣民だったことを懐かしむ声があると聞く。
だが、実際のところ、ドイツ系と他民族との融和が成功した形跡はみられなかった。
第1次世界大戦の終盤、ハンガリーが独立を宣言、最後の皇帝カール一世が亡命し、帝国は崩壊した。
戦後、共和国となったオーストリアでは政治的混乱が続く。そこに世界大恐慌が始まり、国内の中において強権的な政治での安定化を望む声が高まった。
保守派が政権を握っていたが、隣で誕生したナチスドイツとの合邦を望む勢力と、カトリック教会を背景に、ムッソリーニが率いたファシスト・イタリアを担保にオーストリア独立維持を望む勢力が睨み合っていた。
ムッソリーニは当時、ヒットラーを信用していなかったし、またオーストリアがドイツに併合されることで国境が接してしまうことへの危惧を抱いていた。
だが事は急変…1938年にナチスドイツへ併合された。
客観的にみると、これを”大ドイツ主義”ではない。
何故ならこの時期のオーストリアには、二重帝国時代のハンガリー系、スロベニア系等の諸民族はおらず(独立してた)、正確に言えば”小ドイツ主義”の合邦である。
いずれにしても、第二次世界大戦の土俵が固められていったのは確かだ。
さて、黒田氏の論評において、朝鮮はオーストリアのケースと同じだと言う。
確かに、第三帝国の一州であり、ドイツ国民として武器を取っていた。
この歴史的事実において、朝鮮は同じだ。
ただ、帝国から1938年までのオーストリア共和国では、カトリックが国教として定められ、ナチスには従いながらも距離を置いていた。
併合の立役者でオーストリアナチス党のザイス・インクヴァルトはユダヤ人を数百万人強制収容所に入れた”悪人”であったが、占領地における行政は弁護士であり、熱心なカトリック信徒であったことから公明正大なものであった。
ナチスの狂気を前に、一線を引いた感のある…それがオーストリアであり、朝鮮にはそれが見られない。
”高麗棒子”という言葉をご存じなければ、一度検索されることをお勧めする。
統治者が望まないことを、統治者の名の下で行っていた史実を前に、黒田氏の論評は、より先鋭となる。
我輩としては、併合のプロセスについては、オーストリアと同じであると思えるが、その後の展開は、クロアチアのウスタシャと全く同じように見える。
第2次世界大戦後、ウスタシャは地下へもぐり、1991年にはじまったユーゴスラビア紛争を陰で引き起こした。反省も謝罪もなく、だ。
蛇足だが、面白いな…オーストリアではカトリックが狂気を制御する役割を持っていたが、クロアチアではカトリックは狂気を助長させていたとは。
「ところで韓国ではしきりに 日本に対し『ドイツに学べ』というが、では歴史的に韓国は ナチス・ドイツ時代のどこに相当するのか。 フランス? ポーランド? チェコ? それともユダヤ人…」と 反問したところ、相手は絶句していた。
「ドイツに学べ」というのであれば、戦後、EUの要としてユーゴスラビア紛争に介入したと同じように、爆撃するのがお望みのようだね?
もはや特定アジアの嘘は通用しない。