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漫画/アニメ
今日、念願のマウリッツハイス美術館展(於、東京都美術館)まで出かけることができた。
週末は大混雑が予想される。
今週で一か月のサマーバケーションが終わる。
となると、今日か明日しかないが、明日は色々と市役所など出かける場所が多く、落ち着いてフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を鑑賞できるのは今日だけとなる。
幸い、昨晩から狭心症の発作が起こっていない。
少し寝坊をして、上野まで出かけたのだが…いやいや、暑い暑い。
もっとも、上野公園の中の木陰の中に入ると、心地よい涼しさを感じることができる。
ああ、もうそろそろ、秋なんだな…昨日も帰る時、空を見上げたら、秋の雲になってたっけ。
去りゆく夏に寂しさを感じる人が大勢いるようだが、我輩はこの夏と秋の短い時期が一番、ワクワクする。日に日に、秋らしい空気が街中を漂うだけで、心躍る。我輩は来るであろう季節が好きなのだ。まあ、夏に一度も恋の予感を持ったことがない異常性格故かもしれぬが。
美術館に入ると…うお、結構な行列。
入るのに30分待ちとな。
しかも…うわ…入館料1,600円って、映画館並だな…。
あ…待てよ?…障害者手帳で入館は無料になるのかな…
あ、なるんだ、無料で。よかよか…で、この行列に並…ばない?
へ?あ、係員さん、あ、こっちに来い…ですか。
…行列に並ぶことなく、手帳を見せたら、いきなり入れられた。
コミケにたとえると、壁サークルで3時間待っている人たちを横目に、
手帳を見せることで、本職をさぼって作られた同人誌を、無料でもらった…という光景が。
なんか…あれだね。
秋葉原に飽きたというか、縁がなくなった我輩として、この手帳で日本全国の美術館や博物館などを巡るという、新しい週末の過ごし方ができそうだな。
あ、いいかもしれんな。
いや、おもしろそうだ。
うん、そういう趣味にシフトしてみよう。
マウリッツハイス美術館で展示されている大航海時代で華やかだったオランダの絵画の一部が並べられており、どれも魅力的であったが、やはり「真珠の耳飾りの少女」は別格だった。
⇒遠くからでも早く見たい人の列
⇒並んでも近くで看たい人の列
という感じに美術館側がセッティングしてた。
「待ち時間30分です」という立て看板があり、ちかくの有閑マダム達が
「あらやだ、また並ぶの?」
「たまりませんわ、入口で30分、ここでも30分」
「まったく、ここは涼しいけど、入口が暑くてたまりませんでしたわ」
「でもおかげで痩せそうですわ、おほほほほ」
…うん、我輩が太ったままでいる理由は、その入り口30分をスルーしたからであって(チガ
にしても、30分?
いやいや、この人の流れと、列の長さからして、10分も待つことはあるまいよ。
ここでコミケにおける要らぬ経験が活かされようとはなw
「彼女」の前にいる。
進みながら観なければならないので、じっくり近くにいられるのは30秒くらいだ。
列に並んでいる時、遠くからでも観ることができた。
素直に「かわいい」と感じた。
だが、正面に移動し、絵をじっくり見つめた瞬間、自分でも信じられないことが起こった。
絵の1メートル近くに立つと、「かわいい」という感じが一瞬なくなった。
フェルメールの天才的な光彩のタッチから、「彼女」は突然、一人の実在の少女として立体化し、我輩の前で振り返り、微笑みながら何かをつぶやくかのように立ったのだ。
「真珠の耳飾りの少女」には実在のモデルは存在しないと言われている。
画家のイマジネーションで描かれる、この種の絵画を「トローニー」と呼ぶそうだ。
レオナルドダビンチの「モナリザ」についても、最近、モデルではないかと呼ばれる夫人の遺骸が発掘されたそうだが、ダビンチの絵も「トローニー」だという説が最も有力だ。
それだけではない。
ルネッサンス時代に、古代ギリシア・ローマの芸術に目が向けられ、多くの彫刻が創られた。
だが、古のギリシアやローマ帝国に憧れつつも、明らかにそれらとは違う雰囲気を、我輩のようなド素人であっても感じ取ることができる。
機会があれば、NYCのメトロポリタンミュージアムに入ることを望む。
いや、大貫妙子女史のトラウマソングではなくて、だ。w
時代の流れに沿って、様々な美術品が展示されているが、比較的、古代ギリシャ、古代ローマの彫像と、ルネッサンス期の彫像が近い距離で並べられている。
前者のそれを見ると、極めて写実的に彫られている。
理想の体型は、古代オリンピアの勝利者をモデルにしているのか、あるいはポリスにおけるもっとも麗しい娼婦から写し取られたものなのか、いずれにしてもこれらは神々のイメージを市民に植え付け、神々を讃えるための宛先となるアイコンである。
畏怖すべき存在、恩恵を崇める人たちに与える存在として、もっとも理想的な人間を神の移し絵として、写実的に再現することが、神々を讃える重要な仕事であった。
だが後者の時代、信仰はカトリック教会にあり、古代の神々は存在しなかった。
畏怖すべき存在としてのアイコンは不要となり、リビドーの慰めとして、写実的な古代の彫像を、パトロンの要請に応じて、「媚び」が重要となった。
それば「官能的」なエロスであり、それを美術家は「芸術」だと言うが、当時の人たちにとって、隠れて楽しむための品でしかなかった。
だからすごいよ…メトロポリタン美術館のルネッサンス期の彫刻彫金コーナーに行くと、立派なダビデ像に来客者は感動するが、小さなガラスケースには、
というものがたーーーくさん展示されててねえ(mjd w
で、この時代のもう一つの特徴として、「官能的」な箇所のデフォルメと、芸術家の心の奥底にあるリビドーの発言から発展した、「トローニー」の萌芽である。
臀部の強調、胸部の肉感、恍惚とした女性の表情…
どうみても、モデルを見ながら創りあげるには、無理がありすぎる作品が多い。
パトロンの好みに応えるということもあるが、同時に創る側の願望がそこかしこに刻まれている。
現実の女性にはない、パトロンの、そして芸術家本人の「理想」とする「架空の女性」を創るという芸術活動が、その時、生まれたのだ。
リビドーから始まって、芸術は発展するものだ。
遠近法で奥行きを出し、立体感ある裸婦像を描いていくうちに、リアルであるが、あたかもそこにいるかのような、古代ギリシャローマとは違う、写実の技法が確立されていった。
中心点からパースをとることで、二次元のキャンバスから人があたかもそこにいるかのように表すことができるようになった。
光源光彩によって、質感が生まれるようになった。
技法が多く発展することで、芸術家達はそれらを使って、新たな芸術の可能性に挑戦していった。また、様々なテーマに取り組むようになった。
ある人は静物画を、ある人は風景画、ある人は民俗風習をキャンバスに表し、ある人は肖像画に取り組んだ。
フェルメールは、オランダのデルフトで兼業画家として生涯を送った。
いや、画家だったとも言えない人物だった。
本業は居酒屋、旅籠の経営者で、画商として、人生の大半を費やした。
残された絵画数が少ないのは、こういう事情による。
いや、画家とは言えないな…画家のギルドが当時存在しており、フェルメールも加盟していたが、画家としてではなく画商としてであった。
だから、絵の巧い画商…が、正しいのかもしれない。
「真珠の耳飾りの少女」がどのような経緯で描かれたのか、まったく謎だ。
ただ、フェルメール自身によるオリジナルではなかったことが確認されている。
イタリア、ボローニアの画家、グイド・レーニが描いた「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」がある。
組合の一員として、また画商としてのフェルメールは、この絵を観なかったと断定する根拠は皆無に等しい。当時の欧州は、想像以上に芸術家同氏の作品コネクションが整備され、良い作品からインスピレーションを得て、新しい作品が次々と生まれていった。先述の「モナリザ」も、ダビンチの死後、存在が知られるようになって、多くの画家が自分なりの「モナリザ」を大量に描いた。
フェルメールは、「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」から、ごく自然に、何かを感じ、自b群の「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」を描いた。
それが「真珠の耳飾りの少女」」である。
だが、フェルメールが誰かをモデルに描かなかったことに、この作品の偉大性が存在する。
構図はたしかに「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」のままだ。
だが、フェルメールは、自分の心の底にある、理想の女性(いや、この作品の場合は少女だが…あ、となると、フェルメールって、ロリコンだったのかw)を、実体化したいと筆を走らせた。
聡明で心の優しい、自分の理想の女性に、ジパングからの着物を着させ、アラブから輸入されたターバンを巻き、澄んだ真珠の耳飾りをプレゼント…ちなみに真珠の宝石言葉は「芸術」と「恋愛」である。
自分のもちうる芸術的才能を全て出し切り現れた理想の女性への恋愛が、そこにある。
フェルメールは、自分の生み出したこの少女を、現実の世界に引き出そうとしていた。
生きている人間として、創り出し、自分に対して永久に微笑みかけてくれるよう、祈るように描いたにちがいない。
でなければ、あの数秒間は説明できない。
確かに、「真珠の耳飾りの少女」は、我輩の前で、「いた」のだから。
古代ギリシア神話に、ピュグマリオーンなるキプロス島の王の話がある。
実在の女性に失望し、愛の女神アフロディーテを模したガラテアなる女性像を彫刻し、その像を深く愛してしまう。
その姿に感動したアフロディーテがその像に命を吹き込み、ピュグマリオーン王と結婚させると、ギリシャ神話にしては珍しくハッピーエンドな内容である。
このピュグマリオーン王の神話から、心理学者は「ピュグマリオーン効果」や、ネガティブなものとして「ピュグマリオーンコンプレックス」などを発表しているが、我輩は学者ではないので、それらとは関係なく、自分なりの考えを出したい。
この世に存在しない「理想」…それがリビドーから生じたものである場合、人はそれを何等かの形で、この世において、自分の心の底から引き出したいという極めて強烈な感情を有している。
アイドルのおっかけを見ると、彼らのみじめなまでの狂信ぶりは、これの証左だ。
人間としてのありえない生理現象さえも、アイドルにおいて認めようとしない言動は、冗談ではなく正気から考えているものであり、余計に痛々しい。
そして究極に言えば、この「理想」は、抱いている本人の「写し」であるということだ。自分の「理想」の女性は、畢竟、「理想」の「自分」であるのだ。
「自分」が本来、こうありたかったという姿としての「理想」が、女性として現れ、我々を萌え苦しめる。
何度も挙げている「モナリザ」について、ある説が有力になっている。
「モナリザ」の骨格と、レオナルドダビンチの自画像の骨格が一致しているというものだ。
とりみきの漫画だったか、ある作家がエロゲーをやっているうちに、自分がゲームの中に登場する女の子とXXXをしているのではなく、自分自身が女の子になってきて、興奮する…と述べて、レストランのウェイトレスが爆笑するというのがあった。
我輩自身、厨二病臭すぎて嫌いなのだが、「魔法少女リリカルなのは」というカルト人気のアニメについても、観に来ている人たち、コミケの企業ブースで発狂する人たちの様子を見て、出てくるキャラクターが好きというより、キャラクターそのものが「自分」だと思う倒錯に、性的興奮を感じているのでは、と思えて仕方がないのだ。
然り、「理想」の女性は、現実に出てこないし、また「自分」自身もその「理想」の女性には永久になれないのだ。それでも何とか実現に近づこうとする悲しいまでの努力により、時代を超え、様々な表現手法をとって、我々の前に「トローニー」が登場するのだ。
ルネッサンス期に試みが始まり、日本にまでたどり着いた。
リビドーから生じ、デフォルメ表現で実体化し、永久に実現できない「自分」の代理としての「理想」を作り出す終着駅が日本だった。
帰り、HDDを整理したいと思い、ケーブルを求めに秋葉原まで。
ああ…ここになんと多くの「真珠の耳飾りの少女」の末裔が、いるのだろうか…。