ゲームに関する仕事をしようとすると、興奮状態となり、脳からアドレナリンが溢れだし、心臓の血管を激しく収縮させ、死に至る可能性のある狭心症が引き起こされる。
病院から、もし、ゲームを作るという仕事を続けるつもりであるならば、葬儀屋をあらかじめ指定するようにとの警告を受けたのは、数週間前のこと。
我輩、ゲーム業界にいる必要がなくなった、というわけだ。
給料泥棒として残るより、新しいキャリアを積んだ方がいいとは思ったが、
そうはうまくいかない。
何せパナソニックでさえも、本社機能を半減する時代だもんなあ…まあ、
三洋を解体したくらいだから、屁でもないことだろうけど、リストラされる人たちにとっては、新小岩駅のホームに集合という事態になりかねん。
アメリカのTVサスペンスドラマでも、開始三分以内に殺されるのは、決まって我輩のような中年男性。
タイトルが流れた後で、検死台に乗せられて、
「これはエイリアンの所為だ」
「モルダー、あなたは疲れてるのよ」
と頭上で言われる役なんだよな…いや、そんな話じゃなくって。
キャリアをさっぱり捨てるとしても、糧を稼ぐ方法はない。
プライドを捨てて、憐憫の中で細々と暮らすという方法はある。
だが、それも長くは続くことはできまい。
いずれこの業界も、要らぬ者を養うことのできない残酷な時期を迎える。
この座談会記事は作り物の臭いがプンプンするが、実際の話、このような考えがあるとしたら、終わり方が見苦しいものになる…そんな光景、今迄嫌になるくらい見てきた。
急ぐことばかりが善とされる限り、長続きしたためしはない。
それにしても何が残されるのだろうか。
全てが洗い流された後で、何がこの業界において残るのだろうか。
ゲーム制作におけるキャリアがなくなった場合、我輩に何が残っているのだろうか。
全てが取り除かれるその先に、どうやって残りの人生を歩んだら良いのだろうか。
ふと、職業訓練学校の企業法務の先生の授業を思い出した。
そして、思った。
今、そこそこの貯金がある。
いつ死んでもおかしくない状況に、我輩はいる。
突然死んだところで、金を遺して何の意味があるだろうか。
死ぬ前に、自分のために何かに使いたい。
ん?
遊ぶために?
馬鹿いっちゃいけない、我輩はそういう金の使い方が大嫌いなのだ。
まあ、飲む打つ買うがそもそも大嫌いだから、そういう点で。
多少、給与が減っても良い。
少し、時間を今より確保したい。
大学院に通う、という機会は、今しかないのではないか。
経営戦略と著作権管理ビジネスに、以前から強い関心を持ち続けてきたが、そのような場にあっても、泥縄式で体系的な学習と師と仰ぐべき人もなくとりかかってきてばかりだったから、出来上がったものは粗だらけだった。
となると、MBA?でも、著作権管理という考えだと、MOTが良いというアドバイスを、ツイッターで受け取った。ありあまる日本のデジタルコンテンツを、来るTPPに際して、守り、金にする考えが大切になっていく。法務の考えも重要だが、ロースクールじゃないよな。
授業料を容易く出すことができる。
死んで遺すより、この第三の道に活用するという選択肢がある。
そうすれば、キャリアを完全に捨てることなく、知識と経験を活かすことができる。
会社の新たな収益源となる可能性もある。
海外への販売も。
ただ最短で二年間かかる長期戦だから、理解はされにくいだろう。
病身でこのまま朽ちるよりも、死神とワルツを踊りながら楽しめる第三の道。
よし、週末、大学院めぐりをするか。
最初は己の身のため。
そして、この業界が生き残る道を見出さんがため。