ぼんのう

ブルガダ症候群で一級障害者。人生、楽しもうよ♪

青稲の夢

2017.09.17 Sunday 23:20
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    JUGEMテーマ:東北の旅

     

    前後して申し訳ない。

    1215年前、蝦夷と呼ばれる地域の酋長が反乱の末、今日処刑された。

    名はアテルイ。

    腹心のモレと共に、今の大阪のどこかで刑場の露と消えた。

    先月の東北旅行で、「続日本紀」等のわずかしか登場しないその人物について、少しばかり触れておきたいと奥州市埋蔵文化財調査センター等を回ったが、ピンと来るものが残念ながらなかった。

    個人的にその作風のゴテゴテ感故、好きになれない高橋克彦氏の「炎立つ」が、霞の中で慄然として立ち上がる怒れるアテルイの姿を面白おかしく登場させたことと、それが大河ドラマ化されたことで、この一帯の観光の目玉となり、漫画や演劇などで「中央に反抗する英雄」という姿を作り上げ、岩手県において時々見受けられる独特なルサンチマンを代弁する存在として成立していった。

     

    だから、売国奴汚沢を未だに持ち上げているのであろうか…ま、今回はその話ではない。

     

    史実では、朝廷軍との戦いは確かにあった。

    しかし前述の「続日本紀」、そして「日本紀略」では北上川での戦いだけが取り上げられ、15年後、唐突に降伏したとされてる。

    戦はその間、何もなかったのか?

    全く不明のままだ。

    アテルイは500人の部下と共に、坂上田村麻呂の下で剣を置いた。

    ゲリラ戦であれば、まだ十分に戦える数であったとも思える。

    だがそれ以上は続けることはしなかった。

     

    作家や漫画家などは、矢が尽いたからと、最後まで絶望的な戦いから逃れなかった英雄を夢想した。

    坂上田村麻呂がアテルイの助命を強く願ったのは、戦場で刃を交えた末から生まれた奇妙な友情からだと、安直な結論に結び付けたいと思うのはたやすい。

     

    オカルトなものとなると、アテルイは縄文の文化を守る最後の守護者だった。大和朝廷がもたらす弥生文化、稲作文化への抵抗を試みたというのもあったりするが、最近の研究でそれは完全な間違いだと判明されている。

    実際のところ、発掘された稲穂のDNAなどを調べると、アテルイが戦っていたとされる8〜9世紀には、東北全体で稲作が行われていた。稲作を否定し、森の恵みに感謝し、自由な狩りをしていたという縄文的なイメージは、ただ諏訪一帯だけが最後まで残っていたのが事実である。

     

    また多くの蝦夷が、地方に置かれた朝廷の国府に仕えていたという記録もある。

    朝廷文化を学び、朝廷に仕える役人としての教育を受け、実績を積み上げ、やがて同化するという自然の流れがあった。

    が、中には何かの理由で殺人を犯しを、逃亡してそのまま行方をくらますという事件もあった(おそらく、元の”生活”に戻っただけかもしれまい)。逆にそれが珍しい例であるからこそ、事件として記録されるわけであるとも思える。大きな反乱につながった殺人事件は今のところ判明されていない。

     

    経済的独立を失われることへの抵抗から、アテルイは戦った…これも眉唾だ。

    陸路ではなく、海路による交易網が発達し、太平洋側、日本海側共に、東北地方のあちらこちらに貿易の拠点があった。

    無論、今とは違う仕組みではあるが、経済的に鎖国することは不可能であった。昆布や毛皮、馬や羽毛は京において大人気の品であったし、京での鉄製品や織物は蝦夷の豪族にとってはステータスシンボルであった。取引を拒む理由はどこにもない。逆にアテルイが妨害などしたら、降伏する前に他の酋長達によって殺されるのがオチだ。

     

     

     

    前述のセンターでは、日本書紀(景行天皇27年2月27日条)の中で、東北地方調査を行った武内宿禰の上奏が発端だというビデオを流してた。

     

    東の夷の中に、日高見国有り。

    その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。

    是をすべて蝦夷という。

    土地沃壌えてひろし。撃ちて取りつべし。

     

    ここから、日本武尊の伝説が始まったのだが、その流れからアテルイは立ち上がった…というのは、どうにも解せない。

    景行天皇が仮に実在していたとしたら、4世紀から5世紀頃に、日本武尊の蝦夷討伐が始まったということになる。

    いきなり、大和朝廷の軍がやってきて、服従しろと命じたから、反乱を起こしたというのは無理すぎる。

    それに7世紀には既に、蝦夷が大和朝廷まで朝貢をしてた記録が「日本書紀」にあるし、国府に仕えてた蝦夷の豪族も多かった

    コミュニケーション不足?

    800年近くも交流してて、それが不足してたというのであれば、アテルイは現代風に言えば「コミュ障」になってしまう。降伏に際して、500名の部下がそれでもなお付き従ってたのであれば、ことは矛盾する。

    センターが「撃ちて取りつべし」をいきなり出したことには、何か悪意を感じさせてしまう。

     

     

     

    稲作は既に定着し、交易も栄え、大和朝廷との関係が着実に構築されていく中で、何がアテルイに剣を持たせたのだろうか。

    この一帯では、何かしらの大義を持たせようと懸命に想像を働かせて、英雄たらしめんと試みている。

    それは悪いことではない。

    以前日記に、「神話」を持たない民族、国家は滅ぼやすいと書いた記憶があるが、架空であれ、そこに「ここの人たちは、このように生きるべきだ」「困難なことに面した際、神話や伝承での英雄はこう動いた」という「知恵」が、どうしても必要なものである。

    そして皮肉だが、アテルイについて詳細な記録がない故に、たとえ反乱を20年近く続けていた理由が実に下らないことであったとしても、史実でのアテルイとは全く違う「アテルイ」が生まれ、愛されていることは、きわめて幸福なことなのだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    青い稲は蒼天へと連なり、アテルイの夢はこの地方の人たちの夢と繋がっている。

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