ぼんのう

ブルガダ症候群で一級障害者。人生、楽しもうよ♪

徒然と...てか、映画をまた観てるし

2017.01.30 Monday 01:02
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    ブログのアクセス数を久々にのぞくと、ある日は3000あって、別の日は100くらいで...二週間以上、放ったらかしにしておくと、何が起こっているのかさっぱりわからんが、キーワード別に見ると、日立でのパワハラとかに御関心ある方が多いようで。

    書きこまれた方々には、後日、我輩なりの考えを返したいと思うのでよろしくー。

     

     

     

    仕事が特に忙しいというわけではないが、単調な日々の繰り返し。アイデアを出す際に興奮して、アドレナリンが出たりするが、そのために狭心症の発作が起こりやすいという身体の状況を考えれば、退屈極まりないルーチンの繰り返しのほうが良いに決まってる。が、やはり、寂しい気持ちはあるものだ。

     

    そういう時は、どうでもいいことを考えて、現実逃避するのが良い。

    もっぱらのテーマは、台湾留学。

    まあ、現状でできるとは思ってはいないが、たとえば定年退職後、台湾のどっかの大学の語学センターに留学するというのはどうかな…という妄想を繰り返している。

    ただ調べていくと、60歳以上の入学は認められていないそうな...となると、私立の語学教室ということになるのだが、かつて日本語学校で働いていた我輩として、この手の業界に対しては、疑いの気持ちをどうしても抱いてしまう。

    となると、定年前に留学?

    それもそれで、すごいリスキーではあるな。

     

    学ぶのであれば、台北のように、無理すれば日本語が通じるところではない地方都市が良い。

    高雄や台南は魅力溢れる街であるし、台中も台北に近く、いざという時に新幹線で移動できる。

    嘉義のあの町の雰囲気が大好きだ。

    だがここはいっそ、東海岸...そうだ...花蓮はどうだろうか。

    一度しか立ち寄っていないが、心の中で数日間、滞在したいと強く思っている街だ。

    調べると、語学センターを持つ慈済大学というところがある。

    授業料が安い。

    台湾の賃貸サイトを覗くと、そこそこの物件でも、一か月2〜3万円で滞在できる。

    いいんじゃないのー...と思ったら、こちらの大学、全寮制で学生先生全員、制服必須。

    そっか、還暦過ぎて制服を着るのかw

    んー…台湾華語もだけど、本音を言えばいわゆる、台湾語(広義での閩南語)を学べるとしたら...台東より南になるのかな。

    まあ、こんな感じで、現実逃避。

     

     

     

    映画を一気に二つ観てきた。

    まったく別テーマであるが、妙なところで一致しているところがあったのが面白い。

     

    現代の戦争の形から、新たに生まれる矛盾をテーマとした、映画「アイインザスカイ」

     

     

    そしてこちら、故遠藤周作による、信仰と現実の矛盾をテーマとした、映画「沈黙-サイレンス-」

     

     

     

     

    いやあ...同じ日に、こうも根底において同じ「訴え」の映画を観ようとは、思わなかった。

     

    過去の戦争と違い、現在は遠隔距離から、秩序を破壊するテロリストや敵を効率的に、味方損害を限りなく0にして、情報を組み合わせて狭い範囲で殺害するのが現代の戦争。鉄砲を持って、突撃ワーな時代はとっくに終わっている。

    長い年月をかけて、テロリスト集団の首謀者の場所を突き止め、新たなテロが起こされる前にミサイルを撃ちこむ...しかし、そのミサイルを撃ちこむ範囲に、テロとは全く関係のない無辜な少女がいたとしたら?撃ちこんだら、確実のその少女まで巻き添えで殺される。しかし、ここで首謀者を殺さなければ、後日、別の場所で、何百何千もの無辜な市民がテロで殺される。

     

    後者については、原作があるから割愛。

    だがこれも似たシチュエーションだ。

    宣教師が”転ぶ”ことで、目の前の拷問を受けている信者が救われる。

    宣教師が殉教を望もうとも、実際に殺されるのは無辜なる信者達なのだ、宣教師は生かされて、無残に死ぬ信者を見ていくしかできない。信仰か、それとも眼前の悲劇から人を救うことか。

     

    「沈黙」は長らくカトリック教会で、「禁書」とされてきた。

    「転んだ」人たちは、教会からすると「腐った果実」であり、それらを日本人の視点から描いた作品は、唾棄すべきものであった。

    故人はしかしながら、彼らのような「弱き者」に寄りそい、共に涙する「同伴者」としてのイエズスを見出した。

    確かに「日本人的」であり、バチカンからすると到底受け入れがたいものかもしれない。

    だが、「沼」の中で、禁制終了後に辛うじて「根を張る」には、その「弱さ」を通しての祈りが必要だったのだ。

    それに現代の日本のほうも、バチカンの強硬さを責める筋合いはない。現在の日本のカトリック教会もまた、その意固地な「黙って敵に喜んで殺されろ」という考えは、とても「普遍」のものであるとは言えないし、バチカンに全く従っていないただの売国奴に成り下がっている。

     

    前者については、無辜なる多数の市民に対する「敵」の「攻撃」を止めるには、無辜なる一人の少女に対する「味方」の「攻撃」は許されるのか。

    ただここに、この映画の甘さはある。

    もし、少女ではなく、一人の老人だったらどうだろうか?

    会議室の英国軍は、躊躇したであろうか?

    「命は平等だ」という「偽善」を、我輩は信じない。

    仮に老人だったら、躊躇なぞしなかったであろう。それが愛くるしい少女だったから、自分の孫や娘と重ねたから、苦悶していたに過ぎない。

    多数のおっさん達の死体が、波打ち際に打ち上げられても、誰も何とも思わなかったが、赤ん坊の死体が地中海の自ら拾い上げられる写真が報道されたことで、欧州が混乱の中に陥る状態となった。

    一人の少女の命は、多数の市民の命に勝るという根拠があれば、示してほしかった。だがこの映画には、その「偽善」を正当化する根拠は何一つ出すことはなかった。ただ、かわいそうだから...結局、感情論だけか。

    「恥ずべき作戦」ねえ?結局、いい子ちゃんぶりたいだけなのか。

     

     

     

    へ?我輩?躊躇しないよ?

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