誰もが俳人となる所

  • 2018.12.01 Saturday
  • 21:38

JUGEMテーマ:旅行

 

愛車の「雪風(ホンダ・フィットでマニュアル車)」で行くことにしていたが、いきなり会津まで行く自信がなかった。

連休で途中の外環自動車道が混雑する恐れがある。

早起きは小さい頃から平気であるが、年相応の体力不足は自覚している。

どうしても途中で、一度は旅装を解く必要が出てくる。

自動車での旅行は、あらゆる面で万全万能である。

時刻表に振り回されることはない。寒い中、駅舎やバス停で凍えることはない。

風邪やインフルエンザ禍に怯える必要はない。

休みたいと思ったら、どこででも自分のペースで一息つけることができる。

だが、やはりどこかで泊まったほうが、会津をゆっくり見て回ることができる。

 

グーグルマップを開き、東北自動車道を眺めると、白河の地名が目に入った。

一番大きな魅力は、新幹線側の駅前にある馴染みのチェーンホテルが、他と比べ格安だったという点だ。

何せ、この時期に4,000円もしない。

距離的にもちょうど中ほどにある。

食べることについてはあまり期待しないが(だがそれは、後ほど大きなうれしい誤解だったと気づく)、そういえばここは、芭蕉が「奥の細道」で、

 

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ

 

と書き記した、白河の関がある所ではなかったか。

心の迷いのある中で、ここ白河に到達して、ようやく「旅」をするという気持ちになったという場所だ。

いや、それと同時に、会津戦争の火ぶたが切り落された白河口の戦いの場所でもある。

 

なるほど、ここはやはり訪れるべきであろう。

駐車場の位置を一つ一つ「お気に入り」に入れ、まだ暗い朝の4時に出発したら、幸いなことに外環は空いており、途中の羽生PAで朝食を摂ったあと、朝の9時前には白河城の紅葉を仰ぎ見ることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薩長軍からの攻撃で廃墟と化してた白河小峰譲は、平成の世に入ってから当時の資料に基づいて再建された。

城そのものの起源は、南北朝時代まで遡るが、江戸幕府となってから西軍に与したが、何故か徳川家康に気に入れられた丹羽長重によって今の原型ができあがったとされる。その後、紆余曲折を経て、二本松藩が管理する城となった。

 

中に入る。季節として観光のそれではないからか、人は誰もいない。

地元の人が犬を連れて散歩に来てるだけで、賑やかさというものは一切なく、風音だけが耳に入ってくる。

お土産や、この城を建設するのに人柱となった娘を萌えキャラとした物品を扱う茶店も閉まっている。

ここで一杯、何か暖かいものをいただこうと考えていたが、仕方がない。門は幸い。開いている。

あちらこちらの城壁が崩れているのも、寂びを一層深くしてくれている。

 

広い中庭の所、本丸まで行くと、巨大な慰霊碑が建っている。

他にもいくつかの石碑が建てられているが、大切にされている様子はない。

会津連合、薩長連合、それぞれ別々の立場からの鎮魂のものか、どうにも読みにくい内容で判然としない。

ただ、ここは戦場だったのだということを、思い起こさせてくれるのに十分なものだった。

深く一礼をし、再建された城まで行くが、案の定閉まっている。

一時間早くに来たから仕方がない。ここで待つのもあまり意味がないものだ。

早々に城から降り、次の目的地へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しまった。

ここは聖地だ。

 

芭蕉が白河の関をあえてとりあげ、旅の決心云々を文にしたためたのは、後戻りできないことへの悲痛な覚悟からではない。

この関、そしてここから以北へと感じられる、歌を詠みたい、俳句を作りたいという気持ちにさせてくれる、日本人のDNAに響く、ナニカを見つけたことへの喜びに違いない。

 

 

木枯らしが

 関の絵馬を

  揺らす秋(とき)

 

祖(おや)もまた

 いにしへかわらぬ

  目に紅葉
 

 

神社を参拝し、裏道の落ち葉を踏み歩くたびに、自然と俳句が口をつく。

中学校時代から、多くの俳句や和歌を暗誦してきたが、こういう時に自分なりのものができるのが、何とも面白い。

芭蕉に限らず、多くの和歌や俳句が詠まれてきた。

 

 

この本の中では、平兼盛の和歌

 

便りあらば いかで都へ つげやらむ

 今日白河の 関は超えぬと

 

が紹介されている。

平安時代では、ここより以北はもはや「化外の地」であったから、芭蕉と、そして不肖この我輩とは違う意味での、悲哀溢れる感情を抑えることができなかったのであろう。

 

ん?

この本を読むと、芭蕉の頃には、白河の関は草木生い茂る場所でしかなく、「関」としての機能はなかったとある。

はて?となると芭蕉は、「ここらへんが白河の関」だったと想像してたのにすぎないのか。

事実、我輩が今、感慨にふけっているこの「白河の関」は19世紀に当時の藩主が、「ここらへんだろう」と思い込んで再建されたもので、昭和に入ってから、それらしい遺跡が発掘され、あくまでも”おそらく”という程度である。

 

それでもこの雰囲気の、なんと心地よいことか。

安っぽいスピリチュアルファンは、立ち去れと言いたい。

ここは確かに、歌聖舞い踊る場所である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の旅の目的は、負けた側からの明治維新を考えるというものだ。

会津連合、薩長連合が向い合せとなって慰霊碑が建つ旧陸羽街道まで。

一通り線香をあげた後、会津藩家老・西郷頼母が指揮を執ったという稲荷山まで散策することにした。

少しだけ迷ったが、稲荷山公園を目指して少し登ると、白河口戊辰之碑が見つかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は何ともない、退屈な公園となっている。

裏へ行くと、名の由来となっているであろう稲荷神社がひっそりと建っている。

だが、150年前、確かにここは戦場だった。

そして会津と共に戦った人たちの名前が、一人一人、ここに記されている。

ここから先へと向かうと、名前はもっと、増えていくということなのか。

 

 

名を遺し

 紅はぜ散る

  稲荷山

 

 

その場所に、今、立っている。

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